中国山東の名山泰山(1545M )の山頂近くの岩場に、ほとんど垂直に切り立った屏風岩の全面に彫り込まれ唐·玄宗の《紀泰山銘》がある。高さ13、3·メートル、幅5、3 メートル に及ぶ碑刻は、碑文本文のみで24行、行5一字の枠を取り、合計996字に及ぶ雄揮かつ典礼な唐代隷書から成っており、玄宗の親筆と伝えられる。その内容は唐開元ーさん年(725年)、この泰山で封禅の儀式を挙行した経緯と意義について玄宗 李隆基が「郡岳」に向かって高らかに宣言したものであり、自ら栄えある中国唐朝の歴史を受け継ぎ、天の子として天下を治める皇帝の誇りと責任が率直に吐露されている。 

【紀泰山銘】

朕は皇帝に即位して以来十有四年、もっぱら不徳であり、至高の道徳にくらかったが、それでも困難な大任に任じ、不安定な難局を乗り切った。まえず、天下を平定し、開元朝を開いたが、このことで心は広々なり、大河を渉るかのようであった。歴代の皇帝は慶福を積み重ねられ、宰相や百官は協力して政治の根本道を修め、全国から使者が来朝し、五典の道徳は広き渡り、作物は豊収を喜び、民人は大いに和み安堵する。そこで諸侯はみなよく相談して、封禅の儀を提唱し、申して謂うことには、「考は父(母)に対して行う以上に大きいものはなく、礼は上天に対して告げ祈る以上に盛大なものはない。こうして陛下の天命が既に至り、陛下の人望が十分に篤いからには、我々は何度も陛下の泰山封禅を懇願致しますし、陛下はそれを固辞されませんように 」と。

そこで、余はニ三の臣下とともに、虞舜の典礼をよく調べ、漢の制度を考究した上で、軍隊を 賑々しく行進させ、九州を震い動かし、唐朝の御旗をおし並べ、兵士兵馬は一糸乱れること無く、いかめしくも恭しく、規則正しく水が流れるようにして、はるか岱宗泰山に順調に到着したのである。 

「爾雅」に曰く、「太山を東岳する」とあり、また『周礼』には、「泰山はだかん兗州の鎮山である」と。実にこの泰山こそは、天帝天神の血筋を引いた多くの神霊が集まるところであり、その東方の方位は、万物運行の始まりを示すので、「岱」と称し、その位階は、東岳泰山、南岳霍山、北岳恒山・西岳華山・中岳嵩山の五岳の長子格であるので、宗と称する。 古より、地上の王者は天命を受けて易姓革命を行ってきたし、そこで、この泰山において  、革命に成功したことを天地の神に告げ、新帝の氏族を紀した 図録 を申し立ててきた。朕は先王の伝統を継承し、先王の封禅の儀典に則ったが、 このことは、実に天神のご加護に報い、万民の幸福を祈ろうとするものであって、どうして自分を悠久の歴史上に高く置き、伝説上の9人の人皇に比べたりなりしようか!そこで祭壇を泰山の麓に設け、四方八方に助壇を配置し、朕自ら泰山の山頂で御神火を焚き、この泰献が天神に通じることを祈った。このこともまた、泰山の高さにあやかって上天を崇拝し、広大な土地について、その価値を増大するということを意味する。

そこで、仲冬庚寅(開元十三年(七ニ五)陰暦十一月十日)に封禅の儀を行い 、上帝を四方に祭り、そこに我が高祖帝《李淵》を配すれば 、天上の神は、ことごとく降神しないものはない。こうして翌十一月十一日、社首の地で地神を祭り、我が先帝「睿宗李旦」の加護を祈って地神を祭れば、地上の神は、みな祭り尊ばないものはない。十一月十二日壬辰になると、朕は諸侯に謁見したが、上公は進上して、「天子は天命を受け、大福を得られた」という。群臣は拝礼して、千歳万歳を呼号し、共に歓楽し戒め述べて全て天子の徳に寄ることを奏上する。こうして、渾天の運行が協和し、天下の 倫理がゆったり調和しているのは、大夫や長官よ、そなた達の功績である。

万物があるべきところにあり、万民が喜んで植栽に従事するのは、多くの州官や県官よ、そなたたちの功績である。我が十二の兄弟は、父母への忠孝、兄弟への友愛 を実行し、万国に善行を示し与えたのは、まことに素晴らしい。わが朝の儒者は封禅の儀礼を制定し、史官は封禅の楽章を作り、天地万物が順和になったのは、まことに素晴らしい。

東西南北の異民族が、通訳を重ねて我が朝に来貢するのは 、歴代帝王の重なる徳化の賜物であって、朕はなににもまして敬慕する。また聖世を象徴する鳥獣や金銀財宝が、毎日毎月集まり蓄えられ、盛世の気運が漲っていることに朕は、何とも感動する。朕は、これより以後は、いっそう慎んで皇帝の位に在り、王法を統一し、政治の法式を整え、旧法を調べて改め、政治の欠陥を補充し、平易簡潔な法律を保存して、煩瑣なものを排除することに努め、ここに、人として至高の基準を立て、天の法則を顕現させようと思うのである 。

ああ、上天が万民を育むなか、地上の聡明な皇帝はよく治め、天下に大利をもたらし、天帝の事えて道理を明らかにしてきた。また大地が万物に恵みを与えるなか、聡明な皇帝はこれを相助け、よく万民の生計や衣服を充足させ、地の神に事えてその道理を明らかにしてきた。

天の上下共にとこのように明察であれば、天神も降臨して大福をもたらすであろう。さて、我が芸祖たる高祖(李淵)や文考たる睿宗(李旦)は、その霊魂は天上にあらせられるが、天の仰せに曰く、「おお、我が幼孫(玄宗李隆基)」よ、しっかりと天帝を祭るのだ、天帝は従順であるので、祭壇に篤くお祭りすれば、必ず福をもたらすであろう。」と。

そこで、私が答えて申すには、「有唐李氏文王武王の曽孫たる李隆基は、ここに新たに天命を授け、前代帝王の偉業を継承し、永く福禄を保持し、その子孫も長く之を継承いたしたい。」と。私小子(玄宗)は、敢えて上帝の美しき天命に答え泰るために、多数の役人たちと、万民を安んじ、前王の功績を更に抜きんで、後の患いを慎みたい。万人が一人でも適所を得なければ、天下は私を罪するであろう。私がこのように一心を貫くのは、上天も私の真心を分かって下さるであろう。朕は、ただ三つの徳を重点実行するのみ。曰く慈、検、謙と。慈とは、慈悲深く、無限の玉言を反復して心に刻み、検とは、謙虚につつましく、将来の訓戒を 尊び守る意である。自ら満足すれば他人に批判され、自ら謙虚であれば天が味方する。もしこのようであれば、先人の軌跡も従いやすく、国家の組織も保持しやすいであろう。

そこで、泰山山頂の玉石の巖を磨き、そこに金字を銘記することにすれば、後世の人が、朕の言辞を聴いて朕の真心を見、表現された文字の底意を汲んで、朕の本心を知ることができるであろう。

銘文に云う、それ天は万人を生育するが、君主を立てて代わりに天下を治めさせ、君主は天命を受け、天を泰って天子となるものである。天子は代々移り行き、留まることがないなか、 徳の薄い天子は滅び、高徳の天子の御代はの栄えるであろう。

輝くしも唐朝を建国された高祖(李淵)明察であられた太宗(李世民)は皇帝は、随朝を革命し、その威令は全国を覆った。そして天の果てまで国境を伸長し、地の極みまで、領土を拡張された。

その武功は、海外にまで称せられ、その文治は太平を表明している。

高宗(李治)はよく古学を修められ、その道徳の恩沢は遍く施され、無限に広大な九州中国を、短時日のうちに平定し、統治された。その儀礼は泰山の封禅に備わり、その功績は古の舜や禹にも等しいであった。以来、高峻な泰山に護られ、我が唐朝の神位は喜び楽しんでいる。

中宗(李顕)は皇位を継承し、武天の周を一新いたし、先帝の睿宗(李旦)は、中宗の後を承け、天下はその仁徳に帰服した。中宗、睿宗自己を戒めて万民に接し、万物が成長発展する風気が醸成されたが、国家中興の達成に関わる封禅の儀礼は、これを後の皇帝に託された。遥かに思えば、小子たる朕は、、これら五皇帝の礎を承けて即位したが、それらの前帝に比べれば、朕は高い功績も、誇るべき道徳もなかった。

ただ先祖の儀典に謹み順い、永遠の天命を封じたところ、朕の至誠が上天を動かし、我が唐朝の万民を加護下さったのである。

古来、泰山で封禅を挙行した君主は七ニ名おり、それらは泰山山麓の亭亭や云云で封禅の儀式を行った。その遺跡は不明だが、その地名は今日まで伝わっている 。

朕は、これらは文徳のある祖先に謹み順い、前代帝王の偉業を更に輝かせたく思う。以前の放佚な天子は神仙を追求するあまり、神霊を欺き、地下に玉函埋めたりした。その結果、天の怒りを受けた泰始皇帝は泰山封禅時に風雨に崇められ、後漢の光武帝は歴代の封禅の儀典を汚すことになった。

皇帝の道徳が天帝の要望に合わない時は、皇帝は恥辱によって天罰を受けるのである。皇帝の道徳は政治に反映されるものであり、皇帝の名声は欲しいまま欲望からは生まれないであろう。

朕は、この教訓を泰山山頂の切り立った巖壁に刻み、以て諸岳に布告するのである。

大唐開年十四年(726年)、歳は景(丙)寅に在り、九月乙亥の12日、景に建つ。

【紀泰山銘】について竹村則行  訓訳稿九州大学大学院人文学研究院

     平成19年3月1日発行より

     訓訳部分のみ転記 三橋敏次  令和5年6月吉日